こんにちは。

いつでもあなたの居場所
ココロに癒しと解放を
カウンセリングルームの
心理カウンセラー花咲沙耶と申します。

主に
・アダルトチルドレン
・愛着障害
・これって依存ですか~?
・生きづらい
・居場所がない

といった方向けにカウンセリングを行っています。

人生の転機の度に家族から
依存を受けてきた50年
共依存の人生でした。             

どん底からの脱出は
決して一人で向き合っていても
成し遂げる事は出来ませんでした。

50歳で初めてカウンセラーさんと出会い
カウンセリングを受け心理学を学び
精神世界に興味を持ち
一気に好転していきました。

現在は自身の紆余曲折の
人生経験から学んだ
心理学の観点を駆使し
癒しと解放メソッドを
提供しています。

カウンセリングで
克服・改善できるかどうかは
カウンセラーとの相性が
とても大事です。

ご自分との相性を知る為にも
先ずはこのプロフィールに
目を通して頂ければと思い
綴らせて頂きました。

幼少期  
物心ついた頃から機能不全家族で育つ。
父母姉と私の4人家族。
アルコールを飲むと人が変わる
父から母への暴力や暴言が
とても怖くていつも泣いて
固まっていた。

小学時代 
家族の中で自分だけ何か違うと感じ
孤独だった。
想いを一切口に出来ない子に
なっていきました。
悪夢をよく見るようになっていく。

中学時代 
母が私の友達の悪口を言ったり
差別的な言葉が増えていく。
後に母の妄想や幻聴症状となる
精神疾患の兆しだったと知る。

高校時代
母が壊れていく。家族崩壊。
親子逆転するしかないんだと
どこかで冷静にならざるを得ない
自分がいた。

自己犠牲の入り口 
自己犠牲の始まりでした。 
家族の病気を引き金に皆が
私に依存をしてきた。
解っていながら、私は家族と自分を
切り離すことが出来なかったのです。
大きな負のループの入り口でした。

25歳で結婚 
当時、好きな人との結婚を猛反対される。
母の人生、家族の願い、
認められない空しさ、
色んな辛さが交差し、
8か月後には父の気に入った人と
結婚していた。
与えられた環境で幸せを
立証しようと決める。

壮絶な介護 
育児を超えた壮絶な介護が同時スタート。 
実両親の精神的身体的介護18年
義両親の精神的苦痛は25年を経験する

義両親も依存タイプ
義理父からのストーカー行為
義理母からはスケジュールを
監視され執着を受けていたのに
家族行事ではその真逆で
よそ者扱いを受け、
嫁ぎ先も機能不全家族だった。

遂に倒れる
しんどいことをもっとしんどいことで
誤魔化そうと抱える癖があった。
この時一度に色々背負ってしまった。
ホルモンのバランスを崩し
鬱のような症状は低空飛行で6年間。
胃痛、吐き気、下痢、発熱、
身体症状が発症し1か月間入院したが
結局、原因不明で退院する。

全く喋らない夫 
お酒を飲まないと肝心な事が言えない夫。
二人で超えるべき瞬間瞬間に
私はいつも寂しい・孤独を感じていた。
相談しても返ってこないことに
耐える癖がついていました。

音楽に救われる
私を変えてくれる音楽に出会いました。
純粋に好きな音楽に出会って
私の身体の調子が変わりました。
私の周りまでもが次々と変わっていきました。
自分の好きな音楽で私の意識が変わったのです。
自分の真ん中に好きなものを置くと
自分が変わるってことを実感しました。

50歳、子供の不治の病
一難去ってまた一難の私の災難は
どこで止めるのか?
子供が不治の病だと知る。
愕然とした。
50年間、自己犠牲で生きても、
悲しい事実は起きるものですね。
まさに負の連鎖とどん底のループが
繰り返されていることに気付き
自分の思いに正直になる。

離婚とカウンセラー志望と精神世界
簡単にカウンセラーにはなれない
恐さを味わう。
晴れて離婚も出来たのに、
葛藤や抵抗、前に進めずにいました。
自己免疫疾患や原因不明の湿疹、
髪の毛も沢山抜け
自由と希望と色んな怖さが
入り混じって襲っていました。
占い好きから精神世界にも
強い興味を示す。

自分の傷を癒すメソッドとの出会い
癒しのメソッドに出会う
私は自己犠牲という人生を掛けて、
大きな負のループに
どっぷり浸かっている事に
ようやく気付いたのです。

これまでの人生が伝えて来た意味、
全ての紆余曲折と人間関係で得た
知識や経験、分析が生かされ
あらゆる場面で人から相談を
受けることが増えていきました。

悩んでいるあなたへ
誰でもストレスを抱えすぎると
身体症状となって現れたり心の病気となって
サインを出してきます。
症状も病名も貴方の価値を決めるものでは
ありません。
不遇な環境や置かれている立場などで苦しんだり
人から与えられた言葉や価値観で自己犠牲したり
想いを閉じこめたりするのは、
心にとっても身体にとっても、良くありません。
バランスを崩し不安定な状態になってしまいますよね。

どうかゆっくり吐き出すことから…
安心感と小さな望みは心のバランスを整えてくれます。
花咲沙耶は100%貴方の味方となり、
一緒に安心感のワークや望みのワークである
癒しと解放メソッドでバランスを整えて
解決に導きます。
もう独りで頑張らなくてもいいんですよ。
貴方の未来を描いていきませんか?

心理カウンセラーとしての経験・資格・活動内容
✔ AC、HSP、愛着障害、共依存を克服
✔ 50年の生きづらさから脱却
□ 全国オンラインカウンセリング
□ 全国メール&克服動画カウンセリング 他
◇ プロフェッショナル心理カウンセラー資格取得
◇ 癒しと解放メソッド習得&考案 他

↓ もう少し詳しいプロフィール ↓

幼少期~ 学生時代

物心ついた頃から
機能不全家族で育ちました。
父母姉と私の4人家族でした。

アルコールを飲むと
人が変わってしまう父がとても怖かった。

そんな父は母へ身体的・精神的なDVがひどかった
父の罵倒と怒鳴り声、いつも何かが割れる音
母の泣き叫ぶ声、それを見て聞いて育ちました。

小さく縮まってとにかく泣いていた記憶
姉にいじめられていた記憶
過呼吸になっていた記憶

悪夢に悩まされていた

家の中がドロドロで色が無くて
煙草の灰の色だけだと感じていた。

幼い頃から悪夢を見るようになっていき、
自分の想いは口に出来ないが、
悪夢の話は唯一母にしていました。

何故なら、
悪夢にうなされていたからです。

親子逆転の瞬間

あの子(私)は冷めた目で
家族を馬鹿にしてみている
どうせ家族が嫌いなんでしょ

母と姉は私を見て蔑み笑っていました。
意気投合しているのも解った。

この頃姉はひどくグレて所謂不良少女となり
真面目で真っすぐな子に見られていた私は
父から母や姉の様にはなるな!と区別されていた。

母に理不尽な暴言・暴力を振るう父が許せず
そんな父からお前だけはあんな風になるなと
言われ、母や姉から批難される自分が
苦しくて耐えられなかった。

母や姉が大好きなのに、解って欲しいのに、
それを伝える言葉も出ない。
救いたいのに冷たい人間だと言われ
やり場のない気持ちで
死にたいとすら思った学生時代。
神の存在を置くことでなんとか
自分を保っていた。

父は家族に厳しく自分に甘い人でした。
壊れていく母を救いたい想いが
強くなっていきました。

自分は間違ってるのか?

14歳の頃、心理カウンセラーになりたいと
告白するが母みたいな精神病になったら
困るからと、反対される。

母は精神疾患が強くなっていき
笑顔がなくなっていきました。

壊れていく母

私が15歳の時、姉が病と解り、
家族皆が私に依存をしてくるのが解り、
絶望を感じていきました。

一方姉はこの家で父と対等に並ぶほどの
存在となり刺し合いになるからと
自らそう言って家を出て行った。

そしてみるみるうちに
母が妄想、幻聴
意味不明な事を言い出し、
泣きわめく事が増えていき
私は変に冷静にならざるを得なかった。

もう家の中は無茶苦茶でした。
この家は家族は呪われているのではないか
何かのバツを受けているのではないだろうか
そう思わざるを得なかった。

神は居ないと何度も思うのでした。
誰にも話せずいつも喉の奥が苦しかった

感情が無になり
目つきが悪くなっていくのが自分で解った。

母を生かす為にも自分が生きる為にも
親子逆転するしかないんだなと悟りました。

自己犠牲の始まり ( 結婚と壮絶な介護 )

18歳、
親代わり監視付きの姉と同じ住まいで
3年だけの条件付きで
京都へ出してもらえた。

離れた地で好きな人が出来て、
結婚の承諾を貰う為に戻るが
案の定激しい罵倒で猛反対される
誰一人味方はいなかった。

私は生きてるだけで
幸せな体なんだから、
お願いだから親元で子供を産んで
生きて下さいと
病気の姉に泣きながら土下座された。

父の想い、母の想い、姉の想いばかりで
私の想いは一切受け付けて貰えなかった。

この世にこんな理由や根拠があるんだ
と思うぐらいショックでした。

私が自分の想いを貫くには縁を切るしかないと
思いました。
自分が傷つくことよりも縁を切った後に
家族をこれ以上傷つけることが無性に怖かった。
悪夢をとにかくよく見る私の思考は、
自分が想いを貫けばもっと怖い夢が
現実になるのではないだろうかとも思った。

幸せになってはいけない
自由になってはいけない
笑ってはいけないんだなって思った。

嫌われる勇気、孤独に耐える勇気が
なかったのかもしれません。
圧力が大きすぎたせいもあり
色んな思いが交差していました。

被害者面をするな、人のせいにするな
と言われ、その通りだと思いました。
言われたその言葉も悲しすぎて
自分の人生を捨てる覚悟をしました。
究極の選択を自分に課して
好きな人ではなく家族を選び
自分の意思で実家に戻ることにしました。

笑顔が無くなっていき
8か月後には父の気に入った人と
結婚していました。25歳。
私にとってのどん底はここだったので、
後は自分の感情はほぼ麻痺状態でした。

育児を超えた壮絶な介護と精神的苦痛

車の免許を取らせて貰えず、
スクーターの母が父の命令で父の薬を
初めて大きな病院へ取りに行く道中
車と正面衝突を起こす。

死んでいてもおかしくない程の
交通事故。母59歳。

それ以降
身体は59歳なのに、見た目姿が80歳、
母ではない母になっていきました。

原因は見つからず、
廃用症候群、
てんかん、鬱、
パーキンソン様症候群、
初老認知症と病名が付き
実家に泊まり込み。
8か月の我が子の育児と
要介護3の介護が同時スタート。

父は母の状態を受け入れられず
医師との会話、考えること、
しんどいことは全部、私に委ねてきた。

甘えるな!怠けるな!起きろ!
と酒を飲んでは罵倒し追い詰めるのみ。
父から母を離してしまいたかった。

母は事故から3年後、二度、脳の手術をし、
やっと事故による脳挫傷と診断されました。

変貌していく母

ショートステイを利用した施設で
大腿骨頸部骨折をし、
車椅子生活となる。
「施設の責任です」と謝罪され
特別に入所を可能にして下さった。
薬が増えていくことに疑問を抱いていたことと、
父から母を離したかったので、
入所決定は願っていたこと
感謝しかありませんでした。

その時の母はよだれをたらし、
顔は能面
最早私が誰かも解らない、
自分で食事が摂れない程にまで…

入所が確定してから
8年間記憶障害となりました。
今度は独り暮らしの父の世話に
明け暮れました。
育児と介護と仕事と家事との両立。
壮絶な日々でした。

義両親も依存タイプ 

ストーカーしてきたのは身近な人

同居だった夫の両親も依存する人達でした。
舅から6年間ストーカー被害を受ける。

私のスケジュールを書かされていた為、
予定を勘違いした舅が私の素行を疑い始める。

私が殆ど家に居ないので、
私の身辺調査のような事をして回り、
子育てママ友や職場の上司にも
多大な迷惑がかかった。

勝手に二階へ上がり
クローゼットの中を見られたり
職場や図書館で出会って怒鳴られる
家の中では私を避ける
友達と会話していると
カーテン越しから覗く
私が見えると走って隠れる姿を目撃する
車内も物色している姿を見かける
ぶつけた程度ではなく
深い切り込みのパンクが続く
車内で原因不明の雨漏りも疑っていた

他者への迷惑は許せなかった。
毅然とした態度でやめて欲しい思いを舅に伝える
何度ももうしないと謝られ
ついでに好きだと言って
抱き付いて来られた。

そのことだけは姑と夫には話せなかった。

父親を軽蔑し大嫌いだった許容範囲の狭い夫なら
舅を刺しかねないと思ったのと、
舅からお母さん(姑)を裏切ってるから
死のうと思うと聞かされた為
独りで抱えてしまった。

実際怪我をして帰ることが増えたり
私にだけ怒りを表すようになったり
エスカレートしていくのが怖くなっていき
出来るだけ穏便に何も無いかのように
過ごした6年間でした。

私には心穏やかになれる場所が他に無かったので
この問題と向き合うしか無いと思っていました。

普段は依存と執着、盆正月は排除される

同居の姑は指示・命令、監督・監視、
依存・執着の強い人でした。
娘の義理姉から『母(姑)は小さい頃に
自分の母を失い孤独に弱い人だから、
独りにしないで』と言われたこともある。

姑から『盆正月に里帰りする娘(義理姉)は
他人と同じ空間に2時間と
一緒に居られない子だから…』と
遠回しに私は同じ空間に
居ないで欲しいと言われていました。

姑の娘一家が帰省してくる家族団らんの時だけ
私は自分の部屋で用事をしておいでと
仕向けられました。
盆正月はいつも独りで食事をすると
この家は上手く行くんだと
感じていくのでした。

夫と子供は義理姉一家と交わるように
姑が仕向けていました。

冠婚葬祭や村の行事で親戚や年配の近所の人との
関わりがある時は全面的に前へ出さされました。

幼少期から子供の頃のクリスマスとお正月だけは
覚えていて、唯一温かいイメージがあったのです。

Xmasの唄を歌ってアイスケーキを
食べた母と姉との思い出。
お正月だけは母が仕事を休んで
朝から晩までかかって笑顔で
手料理を作ってくれていた想い出。
1ページづつだけですが薄っすらありました。

だから大勢が集まる笑いのある空気に
埋もれていたい憧れがあったので
一人で過ごす年末のお正月は
耐えられなかった。

そして、私は年末年始も関係ない
介護の仕事に居場所を求めるしか
ありませんでした。

この家はそもそも
私と夫が建てた家なのに。

義理姉家族が帰っていくと
またいつもの私のスケジュールを
管理し依存と執着する姑に戻る。

その繰り返しだった。

私の居場所は破れた作業用椅子

盆正月は背もたれのある
立派な椅子に皆が座るのに、
私は何故か出入り口の近くで
よそ者扱いを感じていた。

背もたれの立派な椅子が余っていても
荷物がいつも置いてあり、
私は背もたれ無しの座面の破れた
錆びた作業用椅子が私の指定席でした。

私は辛いと沢山抱え込む癖があった 
平気なふり大丈夫なふりが普通だった

ホルモンバランスも崩し
甲状腺機能低下症となり、
不安症の薬を飲みながら
軽い鬱の様な症状は低空飛行で6年程。

38歳 Xmasの夜
遂に倒れてしまった。

胃痛、吐き気、下痢、発熱、
身体症状が発症し、
立っていられない
膵炎の疑いと言われ入院し、
結局はっきりとした病名もなく
原因不明で1か月後退院となる。

全く喋らない夫

休みの日は朝から酒を飲む夫、
何もしない何も言わないという
DVを受けているような感覚を味わう。

DVの父との暮らしで空気を読める私は
夫の顔色、目つきが変わるのを
察知するのが得意でした。

一緒にお酒を飲めるのが
唯一父との共通点だった夫、
最後は父と酒の席で、
父に怒鳴られる出来事があり、
以降、夫は父を避けるようになり、
後にそれが私の離婚の
きっかけにもなりました。

・舅から不快なストーカーを
受けていた時、
・実家父が生死を彷徨っていた時、
・盆正月楽しいイベントではいつも
よそ者扱いを受けていた時
・子供が病気の時、

夫は無言の圧があった。
父よりマシ、私に手を上げないから
まだいい人なんだと
言い聞かせてきました。

二人で超えるべき瞬間瞬間に
相談しても返ってこないので
孤独で寂しい、1人で泣く、呑み込むのが
当たり前になっていました。

一緒に成長して生きたかったので
何度もトライはしてきました。
いつしか諦め、仮面夫婦を演じるように
なっていました。

目覚めのきっかけ

ある音楽と出会う。
本当の私に気付かせてくれる
音楽に出会いました。

先ずその純粋に好きな音楽に出会って
私の心が安定したことで
身体の調子が変わりました。
私が安定すると義理父も落ち着きました。

好きなものを見つけて、
私の意識が変わったのです。
そして自分のキャンパスを彩るのを諦めるなと
その音楽から聞こえてきました。

50歳 子供の病気

子供も病だと発覚。
愕然とした。
50年間、自己犠牲で生きても、
悲しい事実は起きるものですね。

病気って何?
欲しくてなる病気なんってない
何が辛い?隣と違うから?
強いとか弱いとか、
普通とか異常とか、
健常者とか障害者とか、
命の長い短い、
男とか女とか、
立派とか立派じゃないとか、

誰が決めたの?物差し?
誰の物差しで図るもの?

そんな事ばかりを考えていました。

命がある、子供に言いにくい事もまっ直ぐ
話せる関係でいようと決めました。

姉は母を責めていました。
母も自分を責めていました。
こんな身体に産んでと。

それが全て私に降りかかってきた
人生でした。

私は昔も今も誰のせいでも
無いと思っていました。

どんな病気であろうと
可哀想な病気は無いと思っています。

可哀想な人
可哀そうな子供
にしてはいけないと思うからです。
だから、
子供に謝るのは違うと思いました。

この時気づいたら介護の仕事を常勤で務めながら
5人のキーパーソンを同時に務めていました。

この時私の役割は
1)施設入所中の実母の身元引受人
2)肺気腫となり病院と施設を
  転々としていた実父の身元引受人
3)義理母が圧迫骨折、硬膜下血腫で
  要支援となりケアマネや医師との窓口役
4)義理父のデイサービスや施設入所に
  向けてケアマネとの窓口役
5)病気の子供、大きな病院へ
  片道2時間半以上の通院

仕事中も休みの日も関係なく、
医師、看護師、ケアマネ、
施設相談員、施設職員、
その他地域連携の人達とのやりとりで
電話していない日はありませんでした。

この時初めてこの先の自分の人生を考えた。

『夫の親を介護』→『夫を介護』
→『自分が介護されるだけの人生』
   
本当にそれでいいのか?と問いかけ、
深く深く真剣に考えました。
自分の価値を何処に見出そうとしているのか。
母の為、姉の為は自分の為にと変換してきた。

この歳になってもまだ尚
素直な自分の気持ちを出すと
高圧的な威圧を受けていました。

子供の頃から空ばかり見る癖がありました。
空にも問いかけました。

あの雲に乗って行きたい所へ行きたい。
窓から外を眺めては飛んでいきたい
感覚がずっとありました。

結果、一人で離婚を決意していました。

自分の人生は自分の心が感じるままに
決めれるもの。
自分で自分の心地よい今を
創造していくものなんじゃないのか~


こんな自由な意思を示してはいけないと
思い込まされ、声を出せず、
思い込んできたのです。

実親の介護による苦痛は18年
義理親の精神的苦痛は25年以上抱えました

母が教えてくれたもの、父が教えてくれたもの、
私と関わってくれた全てのものが
教えてくれているものは、
何か意味があるとするならば、
自ら作った悲劇の物語を、
他の世界から眺めてみることでした。

離婚とカウンセラー志望を同時に決意

50歳で心理カウンセラーの
資格を取っても、
その時点ではただの鎧に
過ぎませんでした。

晴れて離婚も出来たのに、
葛藤や抵抗、前に進めずにいました。
表層部分には表れていない
自責と恐怖(トラウマ)、被害者意識、
罪悪感の固まりでした。

カウンセラーさんに
もういいんじゃないですかぁ~?
と言って頂き、心が楽になったけど
笑ってはいけない、
自由にしてはいけない、
幸せになってはいけない、
と深く刻まないと前に進めなかった
当時の自分が悪さをしてくる感覚。

自分中心に自分の人生を歩くのは
初めてで上手くいかない時に弱々しく、
誰を犠牲にしているのだろうか
こんなことしたらしっぺ返しが
来るのではないだろうか
バチが当たるのではないだろうか
安心感の土台がなくて
恐くて仕方なかったのです。

橋本病という自己免疫疾患になり、
原因不明の湿疹が顔いっぱいに
半年間もの間出続けた。

髪の毛も沢山抜けました。
自由と希望と色んな怖さが
入り混じって襲っていました。

何度もカウンセラーになるのを
やめる言い訳を探して、
無料チャットや無料相談で
沢山の人の悩みを聞きながら、

自分はどうしたい?
をずっと問いかけていました。

そして癒してるつもりでも、
実は自分を一番癒していない事に
気付いていきました。

傷口は癒えていなかったのです。

自分の傷を癒すメソッドとの出会い

占いがとにかく大好きで精神世界にも興味があり
心理学の観点と合わせることが出来た

しんどい時にしんどい事を重ねる癖、
目標ばかり掲げ、ずっと自分を後回し、
厳しい自分だったのです。
低空飛行の共依存や愛着障害、
認知の歪みを引き起こしていました。

低空飛行だからこそ
こんなに時間を費やして
しまったともいえます。
カウンセリングの学びやセラピー、
解放セッションをしていく中で
気付いたことがあります。

私が過酷な過去や症状から
浮上出来たのは歯を食いしばって
耐えて来たからではないと解ったのです。

どうしたらこの人生を報われる人生に
転換出来るのかを考えてきたこと!
今の状態でどうしたら自分は
誰も憎まずに生きていけるのだろうかを
考え続けた10代20代がありました。

小学生の時は、毎日毎日泣きながらノートに
怒りや悲しみ、想いを書きなぐり、
神の存在を自分の味方に付けました。

中学生では、未来の自分へ手紙を書いたり
理想の母と自分をイメージし、
母を自分から切り離し
涙のさよならをしました。

社会人では人の長所と短所の観察、
自分で選択し、自分の意思で決断する、
脱・悲劇のヒロイン、一人会議、
ポジティブ思考転換法、
ステキな人を真似るモデリング療法など
一切勉強も読書もせずに
全て直感と自己流で感じるままに。

つまり、癒しと解放の
根本改善の3ステップの原型となるものを
知らず知らずのうちに考案、
実践、立証してきていたのでした。

人生を善のループに
書き換えていくには、
今いる苦しい渦中から少し離れて
自分を俯瞰してあげること。
自分の傷を優先的に癒す事。
そして安心で安定したマインドで、
休みながら少しづつ、だったのです。

沢山の占い師さんや
心理カウンセラーさんにも出会い
私自身カウンセリングを沢山受け、
どんどん軽くなりバランスが整い
視界が開け肩の力が少しづつ抜けていき
気付きと目覚めを体験し
幸転していきました。

そして、
長い苦しみに終止符を
打つことが出来ました。
我が人生をかけて立証したかったのは
「一緒に重荷を背負う」ことではなく
「一緒に重荷を降ろす!」ことでした。
独りの問題ならば、降ろせるけれど
独りの問題ではないからこそ
背負った人生。

重荷を降ろし解放するメソッドを
紆余曲折の人生で
立証することが出来ました。


悩んでいるあなたへ

誰でもストレスを背負いすぎると、
心の病気や身体症状となって現れます。
症状も病名も誰の価値を
決めるものではありません。

力まなくていいんです。
歯を食いしばって
人並み以上の努力をしなくていいんですね。
決して独りで頑張らないで欲しいのです。

噛み締めている奥歯を
緩めていって欲しいのです。


これまでどうだったのか
何が欲しいのかを聴かせて
頂けませんか?

そして、
出来ることから、
プロセスを意識し
少しづつ。

自分にないものに意識がいき
近くの欠点にばかり目がいくのを
探せば既にあるものに視点を向ける。
高い目標は挫けてしまう。
先ずは小さな行動から。
そんな自分にOKを出せないから
伴走者であるココロのカウンセラーが
あなたの傍に必要なのです。

浮き沈みは誰にでも起きることです。
全力で抵抗・反発をしてきますからね。
頑張り屋さん程一人で頑張って
時間が掛かってしまいます。

何故なら自分の中に居る厳しい自分が
自分自身をジャッジしていることに
気付いていないからです。

なので客観視してくれる
カウンセラーさんとの共同作業が
近道のポイントです。

皆様は私みたいに時間を
費やさなくてもいいのです。
自分の生きやすい人生に
気付いて頂きたいのです。

現在は自身の貴重な経験を生かし、
負のループに優しく気づいていき
心理学と時に精神性のお話も加えながら
両方の観点からメソッドを駆使し、
癒しと解放カウンセラー
として活動しています。

悩めるあなたの人生にそっと寄り添って、
解決に導き、未来を明るく照らす
お手伝いをさせて頂いています。

花咲沙耶は100%あなたの味方です。
一緒に重荷を降ろし傷ついた羽を休め
いつでもあなたの居場所に!

あなたの望む未来を描いてみませんか?

心理カウンセラーとしての経験・資格・活動

✔ AC、HSP、愛着障害、共依存を克服
✔ 50年の生きづらさから脱却

◇ プロフェッショナル心理カウンセラー資格取得
◇ 癒しと解放メソッド習得&考案
◇ 問題解決セラピスト習得

□ 全国オンラインカウンセリング
□ 全国メール&克服動画カウンセリング
□ 学生・社会人から育児・介護まで
 人生全般のお悩み対応中
□ 誰にも知られず安心&解決&嬉しい相談サポート

ここまで目を通して下さりあ
りがとうございます。
克服にはカウンセラーとの
相性がとても大事です。
先ずは気軽におしゃべりに
お越し下さいね。

ココロに癒しと解放を 
カウンセリングルーム代表 花咲沙耶